新野へ進行した曹軍を迎え撃つ関羽。この場所で三夜を過ごしたとされる。
現在は、新野にある漢桑城を模した造りとなっている。
清乾隆年間の石碑「漢壮穆侯関公行祠」が残されている。
基本情報
ちょこっと解説
漢建安十一年(西暦206年)、夏侯惇率いる曹軍が、劉備が駐留する新野に向けて侵攻する。劉備は関羽を派して曹軍の進軍を阻もうとする。関羽は鵲尾坡へ進み、曹軍を水攻めするために白河を堰き止め準備をする。戦い前の三日間、関羽はこの大きな桑樹の本で寄りかかって野宿をする。当地の民は関羽に宿を勧めるが、関羽は申し出を断る。そして戦いの日、堰を切り曹軍を溺れさせた関羽は、この桑樹の本で鬚をなぜながら追撃の命令を下したとされる。
関宿桑、現在は新野の漢桑城の形状を模した形となっており、正面には清乾隆五十七年(西暦1792年)の「漢壮穆侯関公行祠」の石碑が埋められて残されている。
関宿桑、現在は新野の漢桑城の形状を模した形となっており、正面には清乾隆五十七年(西暦1792年)の「漢壮穆侯関公行祠」の石碑が埋められて残されている。
探訪後記
ここへは2005年に一度訪れているのだが、その時は横にある建物の部屋から酔っぱらった腐れ人民公務員が出てきて大喧嘩した。平日の昼間から事務所で酒を飲んでいる奴らなんて。まったく。それ以来、ここへは足が向かなかったのだが、Mさんと新野まで来たついでに寄ってみることにした。またあのアホ人民どもがいたらどうしようかと思っていたのだが、着いてみるとその部屋はもう使われていないようだった。新野の漢桑城を模した造りになっているのだが、正面には石碑がはめ込まれているし、中へはいるとそこにもいくつもの石碑が掛けられているが、すでにボロボロ。もうちょっと大事にできないもんかね。まあ、施工が悪いってのもあるのだろうけれど。
位置情報
在野の士であるあなたはこの位置情報を閲覧できません。仕官申請しますか。
いいね! 100