三国遺址探訪:三国志遺跡をおもいっきり巡る旅にでよう!
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更新:2009年4月17日
遺址名
【所在地】
 馬鞍山市雨山区朱然路
【行き方】
 南京からは中華門汽車総站から馬鞍山行きが出ている。もしくは列車で馬鞍山へ。馬鞍山汽車站、馬鞍山火車站の前から市バス10路で「珍珠西苑」下車。湖西路を南へ約650m行くと、朱然文化公園に着く。公園の南側、花園路を西へ約400m、朱然路に出るので北へ約250mで朱然家族墓地博物館。

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【訪問時期】
 2005年6月28日
 2008年5月14日

【ピンイン】
 zhū rán mù

【関連人物】
 朱然

【ちょこっと解説】
  朱然、字は義封。揚州丹陽郡故鄣県(現在の浙江省安吉県)の人。朱治に嫡子がいなかったため、朱治の姉の子である施然は、孫策の計らいによって朱治の養子となり、姓を朱にあらためている。若き頃より孫策に仕え、孫策の死後は孫権に仕える。余姚長に任ぜられ、その才能を認められた後は山陰令、臨川郡太守と出世してゆく。建安二十四年(西暦219年)には呂蒙と共に荆州の関羽討伐に赴き、臨沮で潘璋と共に関羽、関平、趙累を捕らえる。その功績により昭武将軍西安郷侯に封ぜられている。呂蒙死後も孫権からの信頼は篤く、黄武元年(西暦222年)には、宜都に侵攻した蜀軍を陸遜と共に撃破、征西将軍永安侯となる。黄武二年(西暦223年)には、三路から侵攻した魏軍を江陵で防御、呉軍の旗色はよくなかったが朱然の善戦により半年に及ぶ包囲から守りきり、魏軍の夏侯尚は退却。朱然の名は魏に轟くこととなる。陸遜死後は呉軍を率いることとなり、赤烏九年(西暦246年)には大司馬、右軍師となっている。赤烏十二年(西暦249年)に病死。
  朱然墓、1984年6月紡績工場の基礎工事中に発見される。双室磚墓、全長8.7m。墓磚には「富且貴、至万世」などの篆書、銭文などが押印されていた。今までに発掘されてきた東呉墓の中で最高等級の墓とされ、すでに盗掘されていたにもかかわらず、まだ副葬品が140件あまり出土している。その中でも絵が描かれた漆器数点は、当時の芸術文化程度を測る上で貴重な資料となった。また「故鄣朱然再拝 問起居 字義封」と書かれた木刺や「右軍師左大司馬当陽侯朱然拝」と書かれた木謁と呼ばれる名刺も出土、この墓の主が朱然であることが証明されている。2001年6月25日公布、全国重点文物保護単位「朱然家族墓地」。現在は朱然家族墓地博物館として整備されている。

【探訪後記】
  三国時代の人物の墓としては別格。三国遺跡としては言い伝え的な墓が多い中、墓の主が特定され、出土した副葬品も素晴らしいものばかり。朱然と言われてもそれほどパッとしないかもしれないが、その活躍はかなりすごい。とにかくこの墓は一見の価値あり。なかなかお目にかかることの出来ないクラスの遺跡だ。
  一度目に訪れたとき、休館日である月曜日であったために入館できず。日を改めてもう一度訪れることになってしまった。馬鞍山火車站から市バス1本で来られるので、移動は楽だ。中は綺麗に整備され、朱然墓はもちろんのこと、その家族の墓も見ることができた。やはり墓の主が特定されているので、見ているだけでも嬉しい。
  二度目に訪れたときには、直通の市バスがなくなっていた。近くまで市バスで行き、そこからは徒歩。前回、訪れたときにはまだ整備中だった朱然文化公園も完成しており、中には朱然像も。博物館の方は改修工事中だったが、いちおう中に入ることはできた。どうやらここも無料で開放する博物館になったようで、かなり嬉しい。三国遺跡ファンには必ず訪れて欲しい遺跡の一つである。

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