三国遺址探訪:三国志遺跡をおもいっきり巡る旅にでよう!
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更新:2008年5月30日
遺址名
【所在地】
 亳州市譙城区観堂鎮譙陵寺村田庄
【行き方】
 亳州汽車站から観堂行きのバスに乗り観堂鎮の約4km手前で下車。北へ延びる道があるが、降りる場所には特に目印がないので、「田庄へ行くから、途中で降ろして」と車掌に伝えておいた方がよい。下車した場所から北へ約3.7km、田庄の西北。

写真
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魏
呉
蜀
【周辺地図】
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【訪問時期】
 2008年5月28日

【ピンイン】
 qiáo líng sì yí zhǐ

【関連人物】
 曹操、曹丕

【ちょこっと解説】
  譙陵寺、又は譙令寺とも称する。漢中平四年(西暦187年)に曹操が官職を辞し、故郷へ戻る。当時、この場所に読書精舎を建て、「春夏読書伝、秋冬狩獵」隠居休養したとされる。曹丕もこの場所で生まれた。また周囲には攔馬溝の跡が残っており、軍馬を養っていた場所でもある。1983年10月15日公布、亳州市重点文物保護単位。現在は跡地に学校が建設されている。
  漢中平元年(西暦184年)の冬、黄巾の乱を鎮圧に功績のあった曹操は、議郎から済南国相に昇進する。済南国済南王劉康のもと10県を管轄していたが、その県令、県長はほとんどが朝廷の貴族や宦官で、豪族たちと結びつき、権力を盾に悪行の限りを尽くしていた。曹操が着任するや、瞬く間に調査、朝廷に奏し、8県の県令などを罷免させ、清廉な小役人たちを抜擢した。また朝廷が許可した以外の廟や祠などはすべて取り壊し、迷信活動などを取り締まる。こうしてこの地域の治安は劇的に向上した。
  しかし、宦官や豪族たちの恨みを買った曹操、3年の任期を終えると、朝廷に宮中警備の職に戻すように要求。しかし済南での曹操の功績は大きく、朝廷は東郡太守に任ずる。曹操は病気を理由に辞退するが、許されずに着任。その後、曹操は病気の長期療養と称して官を辞し、故郷へ戻る。譙陵寺で1年余りが過ぎ、漢中平五年(西暦188年)秋には、情勢の変化から都尉となり兵をまとめるようになる。しばらくして典軍校尉とまでなる。

【探訪後記】
  さすがに亳州だけのことはある。曹操に関わる遺址の保護には力を入れているようだ。文物碑を立ててあるだけでも、この場所だと強く伝わってくる。
  バスに乗って観堂鎮に着いたはいいものの、田庄までは約8kmあると判明。バスを途中で降りればよかったことを知らされる。仕方ないのでバイタクで途中まで送ってもらう。目印も何もない場所を曲がって、房窪という村まで来た。そこからもうしばらく行くと田庄だそうな。
  田庄の西北、村からも文物碑が見える。到着して建物の中へ入ると学校のようだ。教室の中で子供たちが勉強をしている。しばらくすると中からおっさんが出てきた。話しかけると、いろいろと説明をしてくれた。そしていつの間にやら、村人が集まってきた。その中には御歳80歳の田長明じいさんが。このじいさん、譙陵寺の主らしく、さらに説明が続く。建物の裏には墳墓が4つあったそうで、それも曹操一族の墓だっただとか、西北には曹陵、東北には曹操の宅地跡があったとか。さすがに曹操に関する言い伝えは尽きることがないようだ。以前、譙陵寺遺址が紹介された2000年の新聞記事や、紹介文の書かれた紙なども見せて貰う。この辺りの人民たちは皆、曹操が大好きなんだろう。

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