廬江周瑜墓前面。墓前には「呉名将周公瑾之墓」とある。
神道には石獣が並ぶ。周瑜像も立てられている。
周瑜像近景。なかなか凛々しい。
2008年には周瑜墓園の開発が始まっていた。
基本情報
ちょこっと解説
周瑜、字は公瑾。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省舒城県)の人。偏将軍南郡太守。漢建安十三年(西暦208年)、赤壁において曹操軍を破るが、漢建安十五年(西暦210年)に巴丘(現在の湖南省岳陽市)で病没する。
廬江周瑜墓。周瑜の衣冠塚だと思われ、平地に封土が造られたが、華表などはなかった。明正統七年(西暦1442年)に知県黄金蘭が再建し、「呉名将周公瑾之墓」の石碑を立てている。清咸豊年間に再び破壊されたが、民国31年(西暦1942年)に再建、そのときに元は円形だった墓が、正方形の墓になった。2009年に周瑜墓園として整備されている。
廬江周瑜墓。周瑜の衣冠塚だと思われ、平地に封土が造られたが、華表などはなかった。明正統七年(西暦1442年)に知県黄金蘭が再建し、「呉名将周公瑾之墓」の石碑を立てている。清咸豊年間に再び破壊されたが、民国31年(西暦1942年)に再建、そのときに元は円形だった墓が、正方形の墓になった。2009年に周瑜墓園として整備されている。
探訪後記
ネットでかなり前の周瑜墓の写真を見たことがある。あの頃の墓はボロボロだったが、それはそれで味があるいい感じだと思った。実際に訪れてみると、すでに墓はキレイに整備されていた。周瑜像と数対の石獣。華やかだった周瑜の墓にしては、地味といえば地味なのだが。そして2008年に再度訪れてみると、工事中だった。周瑜墓園として再整備され、いくつもの建物が建てられていた。建物内にはまだ何もなかったが、完成すればいろいろなものが展示されるのかも知れない。このときは周瑜像が見あたらなかった。いったいどこへ持って行ったのだろう。中国の工事は荒いから、移設時に破壊されていなければいいのだが。工事中だったが、奥の墓までは行くことができた。墓自体は特に変化はないようだ。墓園が完成すれば門票を買わなければならないようになるのだろうか。そして中国マイナー観光地の宿命として、いずれまた人が来ないことを理由に門が閉ざされて中に入られなくなり、廃墟と化していくことはないのだろうか。それだけが心配である。
関連遺址
周瑜墓
[ 岳阳 ]
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