通許の曹植墓は、明代に発見されてる。当時は、曹植祠なども建てられた。
衣冠塚だと思われているが、墓道なども発見されているとか。
明代の碑刻「通許県創建陳思王陵祠記」が保存されている。
現在は曹植陵園として整備されているが、普段は施錠されている。
文物碑: 2000年9月25日公布 河南省文物保護単位「曹植墓」
基本情報
【訪問時期】2005年11月23日 / 2008年6月17日 / 2015年12月29日
【関連人物】曹植
【文物保護】2000年9月25日公布 河南省文物保護単位「曹植墓」
ちょこっと解説
 曹植、字は子建。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男。陳王に封ぜられ、諡号は思。詩人としての才能は群を抜く。このため父曹操に溺愛されるが、曹操亡き後、兄曹丕との後継争いに敗れ冷遇される。安郷侯、鄄城侯、雍丘王、浚儀王、雍丘王、東阿王、陳王と転封され、各地を転々とする。太和六年(西暦232年)に失意の元、陳郡(現在の河南省淮陽県)で病没、東阿(現在の山東省東阿県)の魚山にて葬られる。
 通許曹植墓、明成化六年(西暦1470年)黄河大洪水の水が引いた後、発見される。朱紅色と乳白色に塗られた洞壁、そして「魏曹植之墓」と刻まれた石碑。その後、人々は曹植を祀る祠を建てたとされる。それから数百年、度重なる黄河洪水によって荒廃する。
 1982年に通許県人民政府が県級文物保護単位に指定、1998年に河南省文物局が資金を出し、曹植墓を整備。明代の碑刻「通許県創建陳思王陵祠記」を保護する碑亭も建てられた。2000年9月25日には省級文物保護単位となっている。曹植は二度雍丘王に封ぜられている。雍丘(現在の河南省杞県)で生活した時間も長い。洞壁もあり、ただの衣冠塚ではないと考えられている。
探訪後記
 成都交通飯店で知り合った友人の開封太郎さんを訪ね、開封へ行くことになった。そして二人で開封にある三国遺址を訪れることにする。その一つが通許曹植墓だ。通許までは、開封太郎さんが調べておいてくれたバスに乗ってなんなく到着。そこから后七歩村まではどうやって行くか。大通りのバス停の看板を見ると、長智鎮行きのバスがあるようだ。長智鎮まではなんとか到着。地元人民に「后七歩村へはどうやって行けばいい。」と聞いてみた。まだここから数kmあるらしい。開封太郎さんといろいろ話をしながら徒歩で向かう。一人で黙々と歩くより楽だ。后七歩村に近づくと、バスが走っているのが見える。「え、近くまで行くバスがあるんだ」と二人。「帰りはあのバスを待って戻ろう」と話がつく。
 さてさて、なんとか后七歩村に到着。曹植墓はあっさり見つかったが、門には施錠されており、中に入られない。すぐ近くにいた人民じいちゃんに「入りたいんだけど」と聞く。ちょうど近くで日向ぼっこをしていた人民じいさまが管理人だそうだ。お願いしてみると「身分証を見せろ」と言う。パスポートを見せると扉を開けてくれた。二人で大喜びで中へ飛び込んでいく。その後、人民おばちゃんが登場。「七歩曹植墓」と言う本を持ってきて「買え買え」と。見てみると思陵塚などの紹介もあったので二人とも購入。こうやって開封太郎さんとの遺址捜索第二弾が終了した。
関連遺址
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[ 肥东 ]
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位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】河南省通許県
【 タグ 】曹植
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2017年12月21日 19:38
【更新日時】2017年12月21日 19:42
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