武漢漢陽の魯粛墓前面。
清光緒二十六年の墓碑には「呉漢昌太守魯粛墓」とある。
「呉故大夫魯君之神道」の石碑。
基本情報
ちょこっと解説
魯粛、字は子敬。臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県永康鎮)の人。地方の豪族、裕福な家庭に育つ。後に居巣の周瑜と共に孫策の元へ。孫策の死後、孫権に重用され数々の功績を挙げる。漢建安二十二年(西暦217年)に病死。
漢陽魯粛墓、魯粛の衣冠塚。造成された年代はわかっていない。清嘉慶年間、同治年間にも修復されている。現在の墓前にある「呉漢昌太守魯粛墓」の碑は清光緒二十六年(西暦1900年)に立てられたもの。墓は本来南麓にあったが、1955年に長江大橋建設のため山腰に遷されている。
漢陽魯粛墓、魯粛の衣冠塚。造成された年代はわかっていない。清嘉慶年間、同治年間にも修復されている。現在の墓前にある「呉漢昌太守魯粛墓」の碑は清光緒二十六年(西暦1900年)に立てられたもの。墓は本来南麓にあったが、1955年に長江大橋建設のため山腰に遷されている。
探訪後記
以前、武漢まで来たときにも亀山公園の入口までは来たことがある。しかし、そこで急に腹が痛くなり撤退した。魯粛の呪いだったのだろうか。いや、そんなことはない。今回、訪れたときにはなんともないのだから。長江大橋を歩いて渡り、東門から公園に入ろうとしたのだが、工事中。ここまで来て、また入られないのと思ったら「他の門から入れ」と書かれてあった。北門から入り亀山の上まで登っていく。途中、周瑜や趙雲の像があった。ちょっと前まではもっとたくさんの像があったらしいのだが、現在は金を掛けて作った5つだけになってしまったようだ。赤壁なんとか館もすでに閉館しているし、結局寂れた公園になってしまっているのだが。中国もあちこち観光開発しているが、失敗の方が多いよな。さて、魯粛墓に到着。墓前の碑はもっと大きいのかなと思っていたが、意外と小さかった。まあ、こぢんまりとした墓だがいいだろう。魯粛墓は史書などに記載されているだけで8カ所はあるらしい。それを超えるのは周瑜墓なのだが。この二人の墓が突出して多いのはなぜなんだろうか。
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