現在は修復整備され、北区公園の一部となっている。
文物碑: 1990年7月12日公布 広漢市文物保護単位「張任墓」
2008年9月の張任墓。雑草が覆い茂る。
2008年9月の張任墓近景。文物碑が残っている。
2003年1月の張任墓。文物碑が立てられている。
基本情報
【訪問時期】2003年1月26日 / 2008年9月8日 / 2012年5月8日
【関連人物】張任
【文物保護】1990年7月12日公布 広漢市文物保護単位「張任墓」
ちょこっと解説
 張任、益州蜀郡(現在の四川省)の人。劉璋の配下で益州従事を務め、忠義に篤く勇猛。漢建安十九年(西暦209年)、蜀に侵攻した劉備を涪県(現在の四川省綿陽市)で迎撃するが敗退。雒県(現在の四川省広漢市雒城鎮)で再度迎撃を試みるが、雁橋に出撃して敗れ、劉備軍に捕らえられる。劉備は張任の忠勇を惜しみ、降服して配下になることを求めるが、張任は「老臣は二主に仕えず。」と拒否、ついには斬首となった。
 張任墓、斬首された張任の亡骸は雒県の西北、金雁橋の傍らに埋葬された。後に祠なども建立され、清嘉慶十四年(西暦1809年)には知州徳勛が「漢将軍張公任之墓」の墓碑を立てている。1954年に墓の一部が掘り返されたときに「元康六年八月造」と刻まれたレンガが出土しており、晋元康六年(西暦296年)には張任の墓園が造成されていたと考えられる。現在は高さ約2mの封土が残っているが、墓碑は残っていない。
探訪後記
 四川で遺跡捜索を始めた頃。この頃はまだまだ捜索術も未熟で、苦労することが多かった。この張任墓も一度目はたどり着けずに撤退。日を改めて再度の挑戦でなんとかたどり着いた遺跡だった。四川省というのもくせ者で、人民によっては普通話がまったく通じず、「あんた、何を言っているかわからんよ。」と言われる始末。まあ、苦労が多ければ多いほど、思い出にはなるのだろうな。
 あれから5年。また訪れてみる。金雁湖公園までは難なくたどり着いたのだが、問題はその後だった。周辺の開発が進み、道路などが以前とまったく変わってしまっていたのだ。何とか以前の記憶とも合わせて進んでみるも、なかなかたどり着けない。人民に聞くと、この近くということだけはわかる。ふと目に入った地形、「たぶんあれじゃないかな。」と思っていたのだが、雑草が覆い茂っているし、文物碑が見あたらない。すると人民オヤジが近くを通りかる。「あれが張任墓だよね。」と聞いてみる。「そうじゃ、将軍墓だぞ。」と人民オヤジ。「文物碑があったはずなんだけど。」と聞く。「なんだ見つからないのか。ついて来い。」と草むらへ突撃開始。さすがの農民パワー。そしてあっという間に雑草をなぎ払って文物碑が現れた。すごすぎる。いや、本当にありがとう。
 このサイトを見た方からメールを貰う。張任墓が整備されて綺麗になっていたそうだ。ネットで調べてみると確かに公園として造成されているようだし、Google Earthで見てもきちんとした墓の形が見えるようになっていた。また成都へ行く機会もあったので、広漢まで足を伸ばして見てみることに。整備されたものの、墓の位置はまったくかわっていないようだ。でもこれだけ綺麗にしたのだから、墓碑も複製すればよかったのにと思う。
関連遺址
張任墓
張任墓

[ 罗江 ]
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】四川省広漢市
【 タグ 】張任
【公開範囲】校尉 都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2016年6月19日 18:49
【更新日時】2019年1月13日 14:31
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