曹操の漢中撤退時、殺害された楊修の墓だと言われていた。
現在は周囲の土が大きく削り取られている。
以前は文物保護を示す杭もいくつか立てられていたのだが。
基本情報
【訪問時期】2009年6月25日 / 2016年3月27日
【関連人物】楊修
【文物保護】
ちょこっと解説
 楊修、字は徳祖。司隷弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰市)の人。建安年間、孝廉に挙され、郎中を任じる。後に曹操のもとで主簿となる。楊修の家系は名門で、高祖父楊震から父楊彪の四代に渡って司空、司徒、大尉を輩出している。建安二十四年(西暦219年)、曹操によって処刑されている。その理由ははっきりしていないが、曹植の師として行き過ぎた行為があったため、曹操も楊修を疎み殺害を決めていたともされる。
&eemsp;三国演義、第七十二回「諸葛亮智取漢中 曹阿瞞兵退斜谷」では、建安二十四年(西暦219年)に曹操が漢中攻略を試みるが苦戦する。曹操がふと発した「鶏肋」という言葉を耳にした楊修は「撤退しようと考えている」と解釈し、撤退の準備を始める。しかし、これが曹操の意に合わず、逆鱗に触れ処刑される。そしてこの場所に埋葬されたとされるが、この墓が楊修墓としての考古学的確証はまだなく、三国演義を元とした言い伝えの可能性が高い。近年、保護のために「文物保護界桩」の石碑が数本立てられた。しかし実際は墓ではなかったようだ。
探訪後記
 このサイトのアクセスログを見ていると、とある画像に直接リンクされていて、中国からのアクセスが多いことが分かった。その画像は華陰の楊修墓のものだった。そのページを見てみると、「楊修墓の石碑にはなんと書かれているのか」という質問掲示板だった。内容を読んでいると、「華陰の墓は衣冠墓で、本物の墓は勉県にある」ということだった。調べてみると、確かに勉県には楊修のものとされる墓があり、近くのレンガ工場の採土によって消滅の危機だという記事が見つかった。これは消滅する前に一度行ってみなければ。だいたいの場所しかわからなかったが、柳営村とレンガ工場の二つを手がかりとして探すことにする。まずは同じ方向にある漢封寺までバスに乗っていく。途中、車窓からレンガ工場の煙突がないかどうかを見ながら。すると大きな煙突が見えてきた。たぶんあれだろう。漢封寺に寄ったあと、徒歩で煙突があった場所まで戻る。すると大きな塚が目の前に。これだ。ネット情報にあった境界保護碑も立てられてある。間違いない。塚に登ってみると大きな穴が開いていた。ここから墓室へ入られるのだろうか。周りを見渡すと、やはりレンガ工場の採土でかなりえぐられてきている。しかし、まだ墓まではえぐろうとしている様子はなかった。しかし、四川地震後でレンガの需要が多くなっているそうだし、拝金主義が蔓延している今、楊修墓の運命は風前の灯火となってしまうのだろうか。
関連遺址
楊修墓
楊修墓

[ 华阴 ]
位置情報
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投稿情報
【カテゴリ】陝西省勉県
【 タグ 】楊修
【公開範囲】都督 大将軍 丞相
【掲載日時】2018年12月20日 19:57
【更新日時】2019年1月12日 21:20
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