国山碑は、江蘇省に現存する最古の石碑の1つ。
呉東観令史立信中郎将蘇建の書、篆書。
国山碑院の入口。
江南第一碑と称されるとか。
文物碑: 2001年7月16日公布 全国重点文物保護単位「国山碑」
ちょこっと解説
呉天璽元年(西暦276年)に陽羡(現在の宜興)を襲った地震により、いくつかの奇怪な現象がおこった。離墨山(現在の国山)では、突然と十丈もの石室(現在の善卷洞)が現れた。それを知った呉の朝臣たちは、呉末代皇帝である孫皓に祥瑞であると告げる。孫皓は司徒董朝を陽羡に派して封禅大典を執り行わせ、国山と改名させる。
国山碑、円錐型でその形が囤(穀物を貯蔵する囲)に似ていることから囤碑とも呼ばれる。また董朝が立てたので董碑とも呼ばれる。石碑の高さは2.35m、表面には1行25文字、43行が篆書で刻まれている。呉東観令史立信中郎将蘇建の書で、刻工殷政と何赦の名も見られる。江蘇省に現存する最古の石碑の一つで、江南地区の地震を記した現存する最古の資料でもある。
国山碑、円錐型でその形が囤(穀物を貯蔵する囲)に似ていることから囤碑とも呼ばれる。また董朝が立てたので董碑とも呼ばれる。石碑の高さは2.35m、表面には1行25文字、43行が篆書で刻まれている。呉東観令史立信中郎将蘇建の書で、刻工殷政と何赦の名も見られる。江蘇省に現存する最古の石碑の一つで、江南地区の地震を記した現存する最古の資料でもある。
探訪後記
2013年、中国に渡航前に掲示板で開封太郎さんと話をしていると、国山碑の話が出た。国山碑の存在はだいぶん前から知っていたのだが、なかなか行く機会もなく、そのうち行けるでしょう状態になっていた。せっかくなので開封太郎さんと相談し、一緒に行ってみることになった。蘇州からバスに乗って宜興まで。先に周孝侯廟に立ち寄ってからバスに乗って善卷洞辺りまで向かう。バスを降りて歩くのだが、日差しがけっこう強いので暑い。人民にどこから国山に登るのかを聞きながら歩いていくのだが、中には「登られない。」とか言う人民もいたりする。適当に国山の麓を歩き回るのだが、畦道入ったり。山の西側まで行くとやっと登っていける石段を見つけた。ここからがまた大変。おらは京ちゃんを抱っこして石段を登る。開封太郎さんはベビーカーを担いで登ってくれたので、だいぶん助かったのだが。さて、山上にある入口に到達したのはいいのだが、しっかりと施錠されている。どうしたものか。でも見たいものは見たい。開封太郎さんと一緒に取った行動は。後はみなさんのご想像にお任せします。
関連遺址
天璽記功碑
[ 南京 ]
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